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投稿者 : admin 投稿日時: 2009-09-16 21:13:32 (748 ヒット)

 
 ●住  所  幸区北加瀬1−13−1ほか(夢見ヶ崎動物公園内)
 ●交通案内  JR・京浜急行「川崎駅」西口から市営バス川
        63・64・66・83系統「夢見ヶ崎動物公園前」下車、徒歩7分

 矢上川下流の広い沖積低地の中に、夢見ヶ崎(加瀬山)と呼ばれる標高30mほどの細長く突出した台地があります。太田道灌がこの地に城を築こうとしたが、鷲に兜を取られる縁起の悪い夢を見たために築城をあきらめたという故事にちなんで、この地名が付けられたといわれています。

 夢見ヶ崎の台地上には、現在わかっているだけでも11基もの古墳が築かれていました。これらの古墳は総称して夢見ヶ崎(加瀬台)古墳群と呼ばれており、4世紀後半から7世紀末にかけて築造されたと考えられています。

 白山(はくさん)古墳は4世紀後半頃に築かれた武蔵国でも最も古い大形の前方後円墳で、全長は87mを測ります。昭和12年(1937)に発掘調査され、遺体を安置した主体部からは鏡類・玉類・鉄器類など多量の副葬品が発見されました。なかでも三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)と呼ばれる青銅製の鏡は初期の大和政権から分け与えられたと考えられるもので、中央との関係を物語る重要な資料です。

 第六天古墳は7世紀末に白山古墳の西隣に築造された円墳で、墳径は19mを測ります。昭和12年の発掘調査では、横穴式石室から勾玉(まがたま)や金銅製鈴などの副葬品とともに11体もの遺骸が発見されました。これらの古墳は既に湮滅してしまいましたが、台地の上には現在9基の円墳が残されています。

 このうち、第3号墳は7世紀後半に築かれた横穴式石室墓で、昭和26年(1951)の発掘調査では鉄釘や麻織物の断片とともに成人男子の人骨片が発見されました。台地中央部の了源寺境内にある第4号墳は5世紀後半に築造された円墳で、この古墳からは、明治末年に獣身鏡(じゅうしんきょう)2面と鉄斧が出土したということです。
 矢上川をはさんだ夢見ヶ崎古墳群の対岸には、日吉矢上古墳や観音松古墳などの日吉台古墳群があります。

 これらの古墳群は、矢上川流域の豊かな土地を背景とした地方豪族たちの台頭と変遷のあとを偲ばせてくれます。

(川崎市HPより)
 


投稿者 : admin 投稿日時: 2009-09-16 21:11:23 (694 ヒット)

 
 ●住  所  幸区北加瀬1−13−1ほか(夢見ヶ崎動物公園内)
 ●交通案内  JR・京浜急行「川崎駅」西口から市営バス
        川63・64・66・83系統「夢見ヶ崎動物公園前」下車、徒歩7分


 秋草文壺(あきくさもんつぼ)は夢見ヶ崎の台地の西端、市内唯一の前方後円墳として知られる白山(はくさん)古墳の後円部下側から、昭和17年(1942)の土取り工事中に偶然発見されました。完全な形で掘り出されたこの壺は、粘土を敷きつめ河原石を積んだ遺構の中に置かれており、壺の中には火葬された人骨が詰まっていたということですから、骨壺(火葬骨蔵器)として利用されていたものと考えられます。

 高さ42cm、口径16cm、胴部径29cm、底部径14cmを測るこの壺は、口はやや外反して胴の上部が最もふくらみ、底に向かってすぼまっていく優雅な器形をしています。また、肩から胴の上部にかけて黄緑がかった自然釉(ゆう)がかかっていて、一段と壺の美しさを引き立てています。

 この壺の最も大きな特徴は、その名のしめすとおり、口から胴部にかけて刻み込まれた秋の風物にあります。ススキ・ウリ・柳などの秋草やトンボなどの文様が大胆とも思えるような構図で釘彫りされており、日本的な秋の風情を伸びやか、かつ情趣豊かに表現しきっています。

 このような文様の描き方は、従来からの中国陶磁の強い影響から抜け出して、日本人みずからが作り上げた新しい表現方法でもあったのです。この壺は、そうした日本陶磁の新しい動きを象徴する代表的な作品であり、平安時代末の12世紀後半頃に愛知県の渥美窯(あつみよう)で焼かれたものと考えられています。

 こうした日本を代表するような壺が、どうして南加瀬の地に骨壺として埋葬されることになったのか、また、この壺の中に遺骨を納められた人物はいったい誰だったのか。この壺をめぐる問題には非常に興味深いものがありますが、詳しいことは未だ謎に包まれています。
 この壺は発見当時の経緯から慶應義塾大学が所蔵するところとなり、川崎の地を離れてしまいましたが、昭和28年(1953)には国宝に指定され、現在は東京国立博物館で展示公開されています。

(川崎市HPより)


投稿者 : admin 投稿日時: 2009-09-16 21:08:35 (709 ヒット)

 
太田道灌が夢を見たことから江戸城築城をあきらめたという逸話があるなど、原始・古代からの歴史を秘めた丘の上の木立の中に獣舎が点在。
レッサーパンダなど58種387点

 JR「川崎」西口からバス「夢見ケ崎動物公園前」下車徒歩4分
 JR南武線「鹿島田」下車徒歩20分
 JR横須賀線「新川崎」下車徒歩15分 

 ・入場自由 
 ・無休(管理事務所は土・日・祝日、年末年始は休所) 
 ・幸区南加瀬1−2−1
 ・044−588−4030
 ・http://www.city.kawasaki.jp/


投稿者 : admin 投稿日時: 2009-09-16 21:04:01 (656 ヒット)

 
その昔、小向のあたりは梅の名所として知られていました。

明治17年に天皇が観梅のために行幸/御幸(みゆき)されました。
このことから明治22年に町村制が敷かれたときに「御幸村」と名付けられました。

昭和47年に川崎市が政令指定都市になり、区制を施行した際、「御幸」にちなみ「幸区」としました。

区のほぼ中央に位置する南武線鹿島田駅前に建てられたインテリジェントビルや高層マンション群は街の表情を一変させています。

また、横須賀線新川崎駅に隣接する新鶴見操車場跡地には、慶應義塾大学の研究施設「K2(ケイスクエア)タウンキャンパス」や「かわさき新産業創造センター(KBIC)」が開設され、研究開発拠点づくりを目指す新川崎・創造のもり計画の推進が図られています。

一方、川崎駅西口駅前に「音楽のまち・かわさき」の核となる「ミューザ川崎シンフォニーホール」が誕生(平成16年7月)するなど川崎駅西口地区では再開発が進められています。

こうした新しいまちづくりとともに、多摩川の水辺や「夢見ケ崎動物公園」のある加瀬山の緑なども、潤いのある市民生活には欠かせない要素の一つとなっています。

幸区はこのような特徴を生かし、先端技術の集積や文化、余暇環境の整備により、21世紀にふさわしい調和のとれた都市空間づくりを進めるとともに、水や緑を生かした住み心地のよい環境を目指し、すべての人々にとって安らぎのあるまちづくりに取り組んでいます。

(幸区役所HPより)


■ 「夢見ヶ崎」の由来

なぜ加瀬山を夢見ヶ崎と言うのかご存知でしょうか。
江戸城などを築いた太田道灌は、加瀬山に築城することを考えていました。

なぜなら、加瀬山は「付近を街道が通じている」「独立した丘で周りが見渡せる」など城郭としての条件を満たしていたからです。

しかし、築城を思い立った後、道灌自身が鷲に兜を持ち去られる不吉な夢を見たため築城は取りやめたと伝えられています。

この伝説により加瀬山は「夢見ヶ崎」と呼ばれるようになりました。


■ 慰霊塔

昭和35年(1960)、夢見ヶ崎公園内に川崎市戦没者慰霊塔が完成しました。
毎月1回、遺族会の皆さんが掃除しているそうです。


■ 白山古墳跡

白山古墳は4世紀後半頃に築かれた武蔵国でも最も古い大形の前方後円墳で、全長は87mを測ります。

昭和12年(1937)に発掘調査され、遺体を安置した主体部からは鏡類・玉類・鉄器類など多量の副葬品が発見されました。

なかでも三角縁神獣鏡と呼ばれる青銅製の鏡は初期の大和政権から分け与えられたと考えられるもので、中央との関係を物語る重要な資料です。


投稿者 : admin 投稿日時: 2009-09-16 21:00:37 (1152 ヒット)

 
幸区域には、縄文時代から人々が暮らしていたことを示す貝塚や土器などが発掘され、また古墳も発見されています。

幸区内の地名が初めて文献に登場するのは「日本書紀」で、「橘花」(現在の幸区小倉、南加瀬、北加瀬、中原区住吉付近)という名が記されています。

その後の幸区域は、中世、近世、明治中期まで基本的には農業中心の営みが続いており、江戸時代に二ヶ領用水が開通したことにより農業生産力が向上しました。明治に入ると小向梅林が名所として多くの観光客を集めるようになり、明治17年に明治天皇が観梅に御幸されたことでさらに有名になりました。また、明治22年、市制・町村制が実施され、幸区域は御幸村、日吉村、住吉村に編入されました。

明治後期になると工業都市としての姿が見られるようになってきました。

しかし区域が多摩川、矢上川、鶴見川に挟まれているため、毎年のように洪水に見舞われており、大正3年には県庁に住民が大挙して堤防建設の陳情を行い(アミガサ事件)、大正8年に多摩川初の人工堤防の築堤が実現しました。

大正13年には、御幸村が川崎町、大師町と合併して市制が施行され、川崎市となりました。

昭和に入り、幸区域の工業化はますます進みました。

明治以降の都市化の進行で、大正8年に都市計画法が国により制定されましたが、幸区域も川崎市の都市計画区域に包含され、昭和7年には夢見ヶ崎が都市計画法の風致地区に指定されました。

昭和12年に日吉村の一部が川崎市に編入されたことで、幸区域の全域が川崎市になりました。

第2次世界大戦時には空襲の被害を受けながらも、戦後も川崎市は工業都市として栄えてきました。

昭和47年には政令指定都市となったことから区制が施行され、幸区が誕生しました。

幸区誕生後は、社会情勢・経済活動等の変化により従来の工業都市から変化しつつあります。

平成に入ると教育・研究機関の立地が進み、平成7年には市立看護短期大学、平成12年に慶応義塾大学の研究施設、平成15年1月にかわさき新産業創造センターが開設されました。

平成16年7月にはミューザ川崎シンフォニーホールがオープンし、幸区はまた新たな表情を見せつつあります。

(幸区役所HPより)


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