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投稿者 : admin 投稿日時: 2009-09-17 02:17:42 (1056 ヒット)

 
●住  所  幸区小向20−1
●交通案内  JR・京浜急行「川崎駅」西口から市営バス川73系統「上平間」「井田営業所」行き「妙光寺前」下車、すぐ

  幸区の日蓮宗妙光寺には、『民間省要(みんかんせいよう)』を著し、幕臣に取り立てられた人物として著名な田中休愚(きゅうぐ)の墓があります。休愚は諱(いみな)を喜古(よしひさ)、みずからは休愚・休愚右衛門と称し、冠帯老人・武陽散民とも号しました。寛文2年(1662)、武蔵国多摩郡平沢村(現・東京都秋川市)の旧家窪島八郎左衛門の次男に生まれ、長じて農業の傍らに絹織物の行商などもおこない、やがて武州橘樹郡小向村の田中源左衛門家へも出入りするようになり、これが縁で川崎宿本陣田中兵庫の養子になっています。

 宝永元年(1704)には、家督を継ぎ本陣の当主となり、まもなく問屋・名主も兼帯し、宝永6年には川崎宿財政の建て直しのために、六郷川渡舟権の取り扱いを関東郡代伊奈忠順に上申して許可され、川崎宿の復興と繁栄をもたらす基を築きました。しかし、休愚の活躍は、むしろこの後に本格化します。正徳元年(1711)問屋役などを子の休蔵に譲り、やがて江戸に遊学し、荻生徂徠や成島道筑などに学び、享保5年(1720)には、西国行脚にも出ました。50歳を過ぎてからのことです。そして、休愚は同6年にみずからの経験に基づく民政上の意見書『民間省要』を完成させたのでした。

 同書は翌年、成島道筑や大岡忠相によって、将軍吉宗へ献上され、休愚に民政への期待が寄せられることにもなりました。享保8年には、早速、十人扶持が給され、享保期の普請関係の役人として著名な井沢弥惣兵衛の指揮のもと、荒川や多摩川、六郷・二ヶ領用水の普請に関係しています。さらに享保11年には、これらの事績が認められ、大岡忠相の指揮下に入り、宝永の富士山噴火後、水災害に悩む酒匂川の治水工事を行うことを命じられます。この工事は難工事で関東郡代伊奈や小田原藩も手をこまねいていたものです。しかし、休愚は地元農民の力を巧みに引き出し一応の成果を収めました。

 幕府は、これを高く評価し、同14年7月、休愚を武州多摩川周辺3万石余を支配する代官(勘定支配格(かんじょうしはいかく))に抜擢しました。しかし、惜しいことに5ヶ月後の 12月22日には、江戸の役宅に没したのでした。享年68歳。妙光寺の休愚の墓の周辺には、彼の手代達なども発起人に加わり建立された灯籠や、彼の子で跡を継いで代官となった休蔵による休愚の碑文、そして、その休蔵の墓をはじめ、田中家代々の墓もあります

(川崎市HPより)


投稿者 : admin 投稿日時: 2009-09-17 02:14:28 (754 ヒット)

 
●住  所  幸区塚越2−118
●交通案内  JR・京浜急行「川崎駅」西口から臨港バス川60系統「元住吉」行き、「東明寺前」下車、すぐ

 東名寺は、幸区塚越にある浄土宗の寺院です。
『新編武蔵風土記稿』には次にような逸話が伝えられています。
慶長18年(1613)徳川家康は鷹狩のため、小杉の西明寺に泊まりました。
家康は、側で給仕をしていた貞運という者に、その身分を尋ねました。貞運が小庵の主であると答えたところ、その庵が西明寺の東にあったので、家康により「東明寺」という寺名が与えられたといわれています。
 当寺には、平成8年に川崎市重要歴史記念物に指定された「紙本着色閻魔府之図」が所蔵されています。
一般的に近世の仏画は、類型化がすすみ、形骸化して芸術的生命力に乏しいといわれています。しかしながら、地獄絵に限っては多くの作例があり、なかに稚拙(ちせつ)ながら評価すべきもののあることが明らかになってきました。

 本図はその例であり、大画面の上部に閻魔王(えんまおう)を描き、人頭杖、浄玻璃(じょうはり)の鏡、眷属(けんぞく)などを配しています。閻魔像は姿勢良く正面を向き、忿怒(ふんぬ)の相を呈しながらも、その表情は明るく、リズミカルな手の動きとともに叱咤の声が聞こえてくるようです。
中央には、罪人の舌を抜いたり、釜で煮るなどの責苦のほかに修羅道(しゅらどう)を描いています。
また、下部には左端に血の池地獄、川を境に右端に賽(さい)の河原があり、女人地獄と子どもの堕ちる地獄を対称的に配しています。
本図は、このように伝統にこだわらない大胆な図面構成と登場する鬼卒の明るい表情など、地獄絵の新しい展開を示す作例として注目されます。

(川崎市HPより)


投稿者 : admin 投稿日時: 2009-09-17 02:10:55 (1360 ヒット)

 
福聚山静翁寺(曹洞宗)

川崎市幸区神明町2丁目253

戸手村の「里正郷右衛門蔵人」(法名:静国翁道閑居士)という人が開いた寺で鶴見宝泉寺の末山です。
蔵人の死後、識翁が再興したと記されています。

(参考:新編武蔵風土記)


投稿者 : admin 投稿日時: 2009-09-17 02:09:44 (770 ヒット)

 
顕妙山正教寺(日蓮宗)
川崎市幸区紺屋町72

西の原の住人「比留間三郎右衛門」(法名;了知院宗察日秀)が開いた荏原郡池上村本門寺の末山です。
三郎右衛門の後に14世日証が再興しました。

現在の建物は戦災で焼失後、同じ規模で再建されたものです。

(参考:新編武蔵風土記、佐々木のホームページ)


投稿者 : admin 投稿日時: 2009-09-17 02:08:36 (1340 ヒット)

 
 蓮忠山 円経院 円真寺(日蓮宗)

創建開山:自証院日照聖人
中興開基:蒲田所左衛門および妻妙蓮
本尊:大曼茶羅(27世日照聖人筆)
寺宝:釈尊立像、祖師像、鬼子母神を奉安日蓮聖人御真跡

 円真寺は安房国小湊誕生寺の末寺で、開山は自証院日昭聖人。蓮忠山円経院と言いました。
天正18年(1590)北條家没落の際、小田原城で討ち死した家人斉藤大学助久義を追善した事が過去帳にある事から、由緒ある寺である事が分ります。
 寛永10年(1633)、中興開基して、蓮忠山円真寺と改称されました。
 本堂は昭和40年に再建、客殿庫裏は昭和58年に改築されました。
昭和20年に戦災で本殿、客殿を焼失しましたが、享保9年(1724)に建立した山門と鐘楼は難を免れました。

(参考:新編武蔵風土記稿、他)


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