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投稿者 : admin 投稿日時: 2009-09-17 02:25:37 (879 ヒット)

 
住 所  幸区鹿島田954
電 話  044-522-0765

JR南武線「鹿島田駅」を出て、右方向に向かって歩きます。

3番目の角を右に曲がり、すこし細い道を2分ぐらい進むと、右側に浄蓮寺があります。

住宅地の中にあるわりには、とても静かで、正門前には植木やお花が植えられ、とても心地の良いお寺です。


投稿者 : admin 投稿日時: 2009-09-17 02:24:16 (794 ヒット)

 
●住  所  幸区都町4−2
●交通案内  JR・京浜急行「川崎駅」西口から市営バス川63・64・66系統「都町」下車、徒歩2分

 稲作を農業の中心としてきた日本では、水は必需品であり、神に降雨を祈る風習は古代より行われており、「日本書紀」や「風土記」にもすでに雨乞(あまご)いの記事がみられますが、中世の記録や物語にも村人の共同祈願の代表的なものとしての雨乞いの記事がみられます。
align=left>  江戸時代に武蔵国橘樹(たちばな)郡南河原村(現在のJR川崎駅西口一帯の地域)と呼ばれていた地域においても、江戸時代に雨乞いの行事が行われており、当時使用された用具類のうち獅子頭・請雨経曼陀羅(せいうきょうまんだら)並雨乞獅子由来・太鼓及び大皿など(市重要郷土資料)が円明山宝蔵院延命寺に伝えられています。

 延命寺に伝えられている『雨乞獅子由来』と『新編武蔵風土記稿』をもとに考察してみると、当地において雨乞いの行事が定着したのは、寛文8年(1668)以降のことと考えられます。
  寛文8年という年は、江戸幕府が川崎宿に御救米700俵を下付しておりますので、川崎周辺では干魃(かんばつ)による被害が相当あったものとおもわれます。

 南河原村の雨乞いは、はじめに延命寺の住職によって請雨経の修法が7日間行われた後、村人による獅子舞が村中及び川崎宿などを練行するというものでしたが、大正年間には行われなくなってしまいました。
 獅子舞に使用されていた獅子頭は小振につくられ、宝珠獅子は朱漆で、剣獅子・巻獅子は黒漆でそれぞれ彩色されており、風流系三匹獅子頭の形式につくられています。また、3頭の獅子頭の口角部には装飾が施されていますが、このような例は稀です。制作年代は、江戸時代中期と考えられます。

(川崎市HPより)


投稿者 : admin 投稿日時: 2009-09-17 02:22:53 (693 ヒット)

 
●住  所  幸区小倉957
●交通案内  JR・京浜急行「川崎駅」西口から臨港バス川54系統「元住吉」行き、「小倉神社裏」下車、徒歩3分


 川崎市域の天台宗寺院は、川崎区と高津・宮前区に集中し、中原区・麻生区は皆無で、幸区は当寺のみという分布上の特徴がみられます。
 無量院の開創年代について『新編武蔵風土記稿』は、中興開基の没年を永禄5年(1562)3月と記しており、戦国期に開かれたものと推定されます。寛永21年(1644)小倉村が検地をうけたさい寺地附属の畑7畝歩が年貢免除の「除地」となっています。
 無量院にまつわる「竜燈観音」伝説は、昭和56年『かながわのむかしばなし50選』に選定されました。竜燈観音は一般に「竜燈松」の名で全国的にみられる伝承説話に属します。竜燈松については柳田国男や南方熊楠などの民俗学者によって、その分布や文化史的意義が論じられており、松にともる燈は、街道を通る旅人や航海する舟などのパイロットランプとなり、あわせて信仰上の光という意味がみられるようです。

  伝説の概要は、小倉池のほとりに老夫婦が住んでおり、ある年の正月、老夫がまゆ玉の木を伐りに出かけ、誤って池に落ちる。気がつくと立派な御殿があり、姫君が現れて老夫を歓待する。7日後家が気になりいとまごいをすると姫君が小箱を渡す。さて家では老夫の7回忌法事を行っていたが、無事に戻ったので祝宴となる。小箱をあけるとたちまち老夫は死去し、観音と竜のウロコが残る。悲哀にくれた老婆は、この観音を無量院本尊の体内に納め、ウロコは堂前の常明燈へ納めた。以来本堂の前にある松の木に毎晩あかりがあがるようになったということです。
 境内にある寛文元年(1661)銘石燈籠は、火袋部に六地蔵を、竿部に三猿を陽刻した庚申塔。川崎市域に残る約320基の庚申塔中最古のもので市重要郷土資料に指定されています。

(川崎市HPより)


投稿者 : admin 投稿日時: 2009-09-17 02:21:24 (718 ヒット)

 
●住  所  幸区下平間183
●交通案内  JR南武線「鹿島田駅」下車、徒歩10分

 称名寺は、平間山歓喜院と称する浄土真宗大谷派の寺院で、応永元年(1394)に亡くなった圓山によって創建されたといわれています。
 当寺には、赤穂(あこう)事件で著名な赤穂浪士47士を描いた紙本着色四十七士像(市重要歴史記念物)が所蔵されています。
 赤穂事件のあらましは次のとおりです。元禄14年(1701)3月14日、勅使接待役の播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩が、江戸城松之廊下で高家筆頭の吉良上野介義央に切り付けたため、即日内匠頭は、田村右京太夫家に御預け・切腹、御家断絶、城地返上という決定が幕府よりくだされました。その結果、赤穂藩は解体されることになり、藩士は総て浪人となりました。浪人となった藩士の内、大石内蔵助良雄以下47名は藩主内匠頭の恥をそそぐため、翌元禄15年12月 14日夜から15日にかけて吉良邸を襲撃して上野介を討ち、その首を泉岳寺の内匠頭の墓前に供えたあと、幕命によって細川家などに預けられ、元禄16年2 月4日全員切腹し、泉岳寺に葬られました。

  この事件によって、浪士たちは義士であるとの評価が高まり、文学や演劇など多くの作品に取り上げられ、特に近松門左衛門の『基盤太平記』や寛延元年(1748)の竹本出雲による『仮名手本忠臣蔵』によってさらに有名になりました。
本図は、縦117.3cm、横16.7cmの柱掛風の小品で、黒の印半纏(しるしばんてん)を着て、右手に槍を持って坐している大石内蔵助良雄の下に、左右対称風に46名が細密精緻に描かれています。下部には「延享甲子仲冬日鷹峯閑人賛」の銘と「日上幸川」の白文方印があり、本図が延享(えんきょう)元年(1744)に日上幸川によって描かれたことがわかり、この時期の基準作例として貴重です。

(川崎市HPより)


投稿者 : admin 投稿日時: 2009-09-17 02:20:09 (713 ヒット)

 
●住  所  幸区南加瀬3−24−16
●交通案内  JR・京浜急行「川崎駅」西口から臨港バス川54系統「元住吉」行き、「南加瀬原町」下車、すぐ

 長弘寺の宗派は浄土真宗で、開山を宝心(ほうしん)といいます。宝心は、鎌倉郡小菅ヶ谷村長光寺の13代住職でしたが、故あって元和7年(1621)に稲毛領加瀬村の現在の場所に寺を移しました。

 今の本堂(市重要歴史記念物)は安永4年(1775)4月に落成した建物で、大工は北加瀬村の青山忠八です。
彼は了源寺(りょうげんじ)本堂の造営にもたずさわっています。

本堂の屋根は、もと寄棟造(よせむねづくり)・茅葺(かやぶき)で、向拝(ごはい)は銅板葺でしたが、昭和31年(1956)に現在の入母屋造(いりもやづくり)・瓦葺の屋根に改修されました。

その際、正面の肘掛窓に火灯(かとう)形の枠(わく)を付けています。

 本堂は正面柱間5間(背面は7間)、側面柱間6間半の規模で、正面1間に向拝が付きます。

平面は真宗本堂に特有の形式です。それは、前面に前廊下(まえろうか)と信徒のための広い外陣(げじん)をとり、それより奥の床を一段高く上段構(じょうだんかまえ)に造って、その中央を内陣、両脇を左右の余間(よま)とする形です。
これにより建物に奥行きを与え、内陣の聖性が強調されます。内陣と左右余間の床は、もと松の板敷でした。内陣の仏壇は古式な三つ並(ならび)仏壇ですが、本堂の背面になく、半間前に出た位置にあるのは珍しい形です。
内陣正面は漆(うるし)障子の両折戸(もろおりと)と金箔仕上げの牡丹(ぼたん)の彫刻欄間(らんま)で飾り、その前一間通りに、もと矢来(やらい)(柵)を立てていました。

  矢来上部に架けた大虹梁(だいこうりょう)は見所の一つであり、これにより外陣に奥行きと立体感が与えられています。
 意匠面では、天井、組物(くみもの)、欄間に装飾性豊かな技法が見られます。
しかも、部屋の格に合わせて、それらを変えています。

中心の部屋である内陣と外陣中間(なかのま)は折上格(おりあげごう)天井、組物に出組斗(でぐみときょう)を組み、蛇腹(じゃばら)形の支輪(しりん)を付けて、組物の間(中備(なかそなえ))に均斉のとれた板蟇股(いたかえるまた)を置いています。

一方、左右余間と外陣両脇間は格天井、前廊下は鏡天井とし、組物はともに出三斗組(でみつとぐみ)で、中備に同じ板蟇股を置きます。

また、各部屋境に花組子(はなくみこ)と朽木(くちき)形の格子欄間を多用するのも特徴で、全体に華やいだ室内を造っています。

(川崎市HPより)


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